レポート

理解することを諦めてはいけない――2022年夏、沖縄で

2023年02月27日

理解することを諦めてはいけない――2022年夏、沖縄で

Text 大石始[写真:norico]

著者、第3回艦砲ぬ喰ぇー残さー平和コンサート2022.6.23にて(撮影:吉岡紀子)

 2022年の夏、僕は「『複数形』のオキナワを聴く」と題されたプロジェクトを通じ、3回にわたって沖縄島を訪れた。1回目は6月23日、「慰霊の日」のタイミング。その後、9月・10月にそれぞれ1週間ずつ読谷と那覇に滞在した。6月の滞在時はちょうど梅雨が明けたばかりだったこともあり、まるでサウナにいるかのように強烈な湿気のなか、読谷の楚辺公民館が主催する平和コンサートにお邪魔した。9月の滞在時は夏まっさかり。翌10月に訪れたときはすでに秋の気配が町を覆っていた。
 6月は別の取材でも沖縄にやってきたので、昨年夏のあいだ、僕は4回にわたって島を訪れたことになる。これまで幾度となく沖縄島や八重山諸島に足を運んだことがあるものの、これほどまでに集中的に夏の沖縄を味わったのは初めての経験だった。沖縄では夏がどのようにやってきて、どのように去っていくのか。定点観測したような感覚があり、とても貴重な体験となった。

 僕は今、最低気温がたびたび氷点下になる冬の東京にいて、あの夏の湿気や日光、いくら日が暮れようともいっこうに涼しくならない熱帯夜のことを思い返そうとしている。ここ数日の東京には強い寒気が流れ込んでいることもあって、凍えるような冷気が窓の外から襲ってきて昨年夏の記憶をさらに遠ざけようとしている。
 東京に住む僕は沖縄に短期滞在することしかできず、いわば断片的な沖縄しか体験することができない。そのため、僕の体験とはあくまでも細切れの時間でしかなく、それを繋ぎ合わせて自分のなかの沖縄像を作り上げている。
 その一方で、沖縄に住む人々は長い時間の流れのなかで生きている。内地に比べれば沖縄の四季ははっきりしているわけではないけれど、12か月区切りの1年が終わると、次の12か月が自動的に始まるようになっている。当たり前のことではあるけれど、何度も沖縄を訪れるなかで、そうした時間の流れというものを多少なりとも意識するようになった。

 たとえば、頭上を飛び交う戦闘機の轟音。短い滞在期間であればさほど気になることはないが、沖縄に住む人々はこの轟音と共に日常を送っている。それは一体どのような感覚なのだろうか? うるさい。わずらわしい。落ち着かない――僕のような短期間の滞在者が思いつくのはそんなところだ。だが、おそらく不快感を感じるレベルはとっくの昔に、ひょっとしたら物心ついた段階で超えてしまっているのではないか。沖縄でも基地に近いエリアで生まれ育った者にとって、空とは常に戦闘機が飛び交っているものであって、その不条理を無意識のうちに受け入れながら日常を送っているのではないだろうか。
 頭の上で常に轟音が鳴り響いている生活。そんな日常を僕は想像することすらできない。理解しようというのが無理な話だ。ただ、理解できないから無関係というわけではない。僕の住む東京と沖縄はコインの表と裏のようなものであって、彼らの犠牲のもと、僕らは静かな空の下で生活を送っている。
 今回のプロジェクトを通じ、沖縄とどう関わることができるのか、僕は常に頭を悩ませていた。今のところの結論としては「理解した気にならない」ということだ。「沖縄は◯◯◯である」と安直に結論づけ、理解した気になるのは思考停止に過ぎない。
 そもそも沖縄の夏の、猛烈なほどの湿気や暑さにしたって、昨年夏に何度も体験したことで理解したつもりになっていたけれど、その理解すらも怪しい。実際、冬の東京にいると、あまりの寒さによって沖縄の夏の記憶は曖昧なものになってしまうのである。
 ただし、理解するための労力を惜しんではならない。歴史を学ぶこと。さまざまな言葉に直接触れること。頭上で轟音が鳴る生活を想像すること。そうした地道な積み重ねの先にしか、特定の土地に関わることはできない。それが昨年夏に学んだことのひとつだ。

 「『複数形』のオキナワを聴く」というプロジェクトの基本姿勢としてそうした思慮深さは大事なことではあるけれど、実施期間が定められているプロジェクトである以上、ある段階で何らかのアウトプットや総括をしなくてはならない。それは中間発表みたいなもので、実はこのダラダラとしたテキストもまた「アウトプット」のひとつだったりする。
 今回のプロジェクトの概要説明にはこのように記されている。「地域におけるリサーチ型芸術実践(音楽)のモデルケースとして、日本復帰50年を迎える沖縄の『音の個人史』に関するリサーチに基づくアーティスト・イン・レジデンス・プログラムを実施し、音楽・映像作品の創作を行います」――そうした創作の前段階として僕とVIDEOTAPEMUSICさんは沖縄各地を回ったわけだ。ただし、その「創作」のかたちとはどのようなものか、プログラムコーディネーターである沖縄県立芸術大学の向井大策さんと呉屋淳子さんが明確なゴールを指し示すことはなかった。ゴール以上に創作にあたってのプロセスと課題が重視されていて、それこそがこのプロジェクトの核であった。
 だが、スタートしてみて身に染みて感じたことだが、「ゴールのかたちを決めないプロジェクト」というのはおもしろそうな謳い文句である反面、メンバーとしてはどこに向かっていいのか不安になることも多かった。
 僕の仕事は普段、明確なゴールが決められている。著作物であれば刷り上がってきた本そのものだし、ウェブメディアであれば公開された記事がゴールだ。そこに向かってどう進んでいけばいいのかそれなりにわかっているつもりだし、ゴールまでの計画を立て、それを遂行していくのが自分の仕事である。
 だが、今回の場合、ゴールのかたちを決めないわけで、そこまでの道順も決めようがない。何をどう吸収し、どう解釈するべきか、根本的なところがわからないのだ。たとえば読谷のどなたかに会いにいくとなっても、何の話を聞けばいいのかがわからない。その結果、多くの場合で雑談のようにとりとめのない会話をすることになった。普段のインタヴューの場合、テーマを設定し、会話のなかでそれを掘り下げていくわけだが、今回は雑談を交わすことしかできず、インタヴュアーとしてはどうも手応えがない。そのなかで重要な話がぽろぽろと出てくるわけだが、本当にこんな雑談でいいのだろうか?という不安が脳裏をよぎることもあった。
 向井さんと呉屋さんは僕らにいったい何を求めているのだろうか。VIDEOTAPEMUSICさんとファシリテーターの桜井さんとたびたび反省会的に酒を酌み交わし、3人でうんうんと頭を悩ませることもあった。
 向井さんと呉屋さんにとってもまた、このプロジェクトはひとつのチャレンジであったのだと思う。向井さんは音楽学の、呉屋さんは文化人類学の研究者であり、これまで無数のリサーチを行い、さまざまなプロジェクトに関わってきた。だからこそ、呉屋さんたちは予定調和的な結論を前提としたプロジェクトに対する疑問のようなものがあるのだろう。特に「沖縄」というフィールドでのリサーチが、得てしてそうした結論に陥りやすいことは想像がつく。そうした結論ありきのリサーチではなく、プロセスを重視したもの。おふたりがそこに向かっていった背景は、アカデミアの外にいる僕もなんとなくイメージできる。
 そして、「予定調和的な結論」とは、先述した「沖縄を理解した気になる危うさ」とも繋がっているように思える。だからこそ、重要なのだ。「理解した気にならない」ことが。

 20年以上前、初めて沖縄を訪れた。まだまだ人生経験も少なかった僕は、(テレビや映画の悪影響もあって)沖縄という場所に対して幻想を抱いていた。そこには素朴だけど優しい人たちがいて、都会に住む苛立ちを忘れさせてくれるような出会いがあるのではないか。今となっては恥ずかしいけれど、僕もまたそんな「なんくるないさー幻想」みたいなものを抱いていたのだ。
 そのときは確か八重山諸島で1週間、沖縄島で1週間を過ごす予定で、まずは石垣島を訪れた。宿泊したのは島中心部の安宿。朝になって外に出てみると、そこでは味のあるおばあが植木に水をやっていて、その横で猫がだらりとくつろいでいた。そこにはゆったりとした島の時間が流れていた。
 ああ、沖縄だなあ、いいなあ。そんな感慨に浸っていると、次の瞬間、おばあは道に落ちている石を手にとり、何やら大声をあげながら猫に向かって石を投げた。しかも全力投球である。一目散に逃げていく猫。石は道端を転々としていくと、路上に停めてあった車のフロントドアに音を立ててぶつかった。おばあはそのことを気にも止めず、ぶつぶつ言いながら植木の水やりを続けた。
 別になんてことのない光景である。おばあと猫は決して友好関係にあったわけではない。いや、むしろ友好関係だったのかもしれない。何か気にいらないことがあって、石を投げただけだったのかもしれないし、小便しようとする猫を威嚇したのかもしれない。真相はよくわからないが、おばあが投げる石がフロントドアに激突するにぶい音は、まだまだ若かった僕にとって、沖縄という「南国の楽園」に対する幻想を砕くのに十分なインパクトがあったのだ。
 その旅ではいろんなことがあった。いいこともあったし、気分のよくないこともあった。ビーチは確かに綺麗だったけれど、1週間もすると最初の感動は薄れ、やがて東京から持ってきた海パンに足を通すこともなくなった。頭上で鳴り響く戦闘機の轟音は耳にしていたと思う。でも、その音と共に生きるというのがどういうことなのか、考えを巡らすことはなかった。

 僕らは今回のプロジェクトを通じ、確かに「『複数形』のオキナワ」を聴いた。伊良皆芸能保存会の面々が奏でる太鼓のリズムと、ガクというチャルメラの音色。読谷村楚辺のユウバンダで聴いた、でいご娘「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の切々とした響き。沖からユウバンダへと吹き込む浜風の音。沖縄市久保田のプラザハウスショッピングセンターに置いてあったピアノの音。月苑飯店のBGM。読谷まつりで聴いた多種多様な旋律とリズム。そして、読谷や沖縄市で出会ったさまざまな人々の声、言葉、笑い声。
 それでもなお、僕はいまだに沖縄のことがよくわからないままでいる。そもそも「『複数形』のオキナワを聴く」といっても今回僕らが訪れたのは沖縄島のみ、それも読谷や沖縄市などごく一部の地域の、さらにごく一部の「オキナワ」しか聴いていない。
 僕らは沖縄のことを何も知らないし、何もわからない。わからないけれど、わかりたいと思っている。耳をそばだて、目を凝らすこと。知ること。考え続けること。そして、「オキナワ」を思うこと。理解することを諦めてはいけない。
(写真は、第3回艦砲ぬ喰ぇー残さー平和コンサート2022.6.23での著者[撮影:norico])

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